昔話をしよう。
それは、今から6年ほど前。私が大学に入りたての頃。以前、高校受験の参考書を探しに近所の図書館へ行った時、ソードワールドのリプレイを発見して読んでいた私は、サークル紹介誌でTRPG研を探した。そして、新人歓迎会にすぐに乗り込み、サークルへと入った。
新人歓迎会での初セッションは私にとって非常に衝撃的だった。今までコンピューターRPGを多くやっていた私には、1回の、しかもゴブリン並みの雑魚と戦うだけでも頭を使い、魔法の達成値をたった1上げるのに消費を倍払うなんて行為は信じがたいものだった。DQやFFでは「たたかう」コマンドを連打していればそのうち終わるような戦闘しかしていなかったからだ。最初はルールもわからず、先輩やGMの言うことを必死に聞き、理解し、実践した。初めてのキャラクターは知力21の蛮族でシャーマンだった。リプレイの某シャーマンのごとく、スネアが大好きだった。
これがきっかけで、私はこの面倒くさい(あるいは厄介な)TRPGという代物に触れ、はまり込んでいった。
古本屋を巡り、TRPG関連の文庫をしらみつぶしに探し、買い漁った。ソードワールドやガープスのルール、リプレイはもちろん、「ベルファール魔法学園」などという今見ると「……」な代物も買った。今では「ガープス・リングドリーム」と共に仲良く押入れに眠っている。
ある時、いつものごとく古本屋で文庫を漁っていると、TRPGで扱われる世界での常識が書かれた本を見つけた。冒険者の一般的な地位とか、ファンタジー世界での生活等が書かれた文庫本である。
私はこの本の中で、「冒険者はたとえ戦闘で使わなくてもダガーを一本常に持ち歩いている」という記述を見つけた。理由は簡単で、冒険者は野宿の機会が多いため、ダガーがあれば様々な用途に使用できるからだ。食材を切ったり、丈夫な蔦を切ってロープ代わりにしたり、木を削ったり、穴を掘ったり……それこそ、ダガーの1本もないと野宿すら不自由してしまうほどだ。
この記事を読んで以来、私のキャラクターは常にダガーを一本持ち歩くようになった。それが例え筋力一桁のシャーマンであろうと、生粋のソーサラーであろうと、だ。今でも、ソードワールドやガープスをプレイする際には必ず持ち歩かせている。
ダガーは安いとはいえ、実際のゲーム内で活躍することは皆無に等しい。言ってみれば、「データ的に無駄」な代物だ。それでも私はダガーを持たせることをやめなかった。
なぜか?それは、私がこの「1本のダガー」に「キャラクターが仮想のものとはいえ世界の中で生きている」という実感を強く感じるからだ。
戦闘で派手な攻撃を行う、巧みな交渉術で相手を納得させる、心に響く台詞を言う……どれもその瞬間、キャラクター達は輝いて見える。しかし私は、キャラクター達も生きている場所があり、生活に必要な行動は取るし、たとえ日の目を見なくても生活に必要なものも持っているということを忘れないようにしている。まぁ、キャラクターが人ではなかったり、完全なイロモノとして作成した場合はちょっとそのことを忘れたりするのだけれど。
最近は、キャラクターの日常や目立たない所を意識することは殆どなく、目立つ部分ばかりを強調して見せていることが多いのだけれど、見えない部分にもそれなりの理由があるということを忘れてはいけないなと思う。